『友達から絵を下手だと言われた息子。~未来を描く勇気を育てる~』
先日、わが家の家族会議を行いました。簡単な議事録の箇条書きはこちらです♪
・前回の復習 (お片付けのルールの確認、「おもちゃは、遊んだら片づけるのではなく、ちゃんと片づける責任を負うから、遊ぶ権利があるという話。」)
・娘(3歳)がトマトやナスなどの野菜を育てたいという提案
・息子(5歳)がアジサイやヒマワリなどのお花を育てたいという提案
・来年の夏には野菜やお花を植えれるようにしようと決定!
・息子(5歳)が「作品をつくりたい!」とのこと
・カレンダーや本を作りたいという提案
・わが家の来年のカレンダーはみんなで作ることに決定!
こんな感じでした~
子どもたちも積極的に発言をしてくれ、毎回、みんな協力的に会議に参加してくれたので嬉しく思います♪
その中で、気になる発言があったので、そのことについて書いてみようと思います。
☆息子は目を使うことで世の中の役に立てるのではないか?☆
すこし会議の内容とはズレますが、僕はうすうす感じていたことがあります。それは『息子は目を使うことに適性があるのではないか?』ということです。
どういうことかわかりませんよね?(笑)
子育てで大切なことに一つに『子どもがどういう風に社会の役に立っていくのか?』ということを親と子どもが一緒になって考えていく、ということがあると思います。子育てって何をしているのか?というと、子どもをちゃんと自立させて、社会の役に立てるように育てていくことだと思うんです。
親である、僕や妻がいなくても、人々と協力し、ちゃんと自分の力で社会の役に立っていく。
それが自立だと思うんです。
それで、社会の役に立つ方法といっても、たくさんありますよね?その中で、『この子がどういう風に役立っていけるかな?』ということは、ある程度、親の中で仮説立てていくのがいいのかなぁ~と思っているんです。
もちろん、これは、親が子どもの未来を決めて、そちらの方に誘導していくということではありません。
ただ、「選択肢の一つとして、こういう未来があるよ♪」ということを提案するということは大切だと思うのです。
それを選ぶか選ばないかは、子ども次第ですけどね。
さて、アドラー先生はこんなことをおっしゃられています。
1.人間を理解するための方法として
一般的にいって、ほとんどすべての子供が、目や耳を持って、また運動諸器官をもって人生に立ち向かい、彼らに示されるもろもろの印象や可能性のなかから自分自身の世界像を形成するのである。そしてわれわれがひとりの人間を理解するのは、彼らがどの器官をもって人生に一番直接的に相対しているのかを理解した時のみである。なぜなら、ここにおいてあらゆる関係が意味を獲得し、世界像の形成に影響を与え、それによって子供のその後の発達に影響を与えるからである。(人間知の心理学P55)
著書:アドレリアン P8より
これがどういうことかと言うと、アドラー心理学の類型に「感覚型」というものがあり、それは3つに分けることができます。一つは、聴覚型。二つ目は、視覚型。三つめは、触覚型です。
つまり、耳を主に使って聞くか、目を主に使って見るか、それ以外の身体感覚を使うのか?これによって、ある程度、分類ができるということです。
もちろん、これは、パセージには出てきません。アドラーの考えをもとに、あくまで、僕の自己責任に自分の子育てに当てはめ、考えていくものです。
それで、長男をこれに当てはめて考えると、日ごろ会話から『視覚型』じゃないかなぁ~と思うのです。
これは、例えば普段の「保育園で何がった?」という主題の会話とか、その他、長男が僕に話してくれるほかの話から、"どうも、目で見たことに関する話が多いなぁ~"と感じるということです。
アドラー先生は「5歳ぐらいまでにだいたいのライフスタイルを固める」と言ったそうです。もしかすると、長男は、これからの人生を視覚型、つまり「目を使うこと」で人生に立ち向かおうとしているかもしれませんね。
☆保育園で描く勇気をくじかれている☆
それで、家族会議の話に戻ります。先日の家族会議の中で、息子がポロっとこんなことを言ったんです。
『ボク、絵が上手になる!漫画家になりたい!』
これを聞いたときに、僕はこう思ったんです。
(おぬし、やはり視覚型かッ!?)
視覚型の特徴としてこのようなものがあるそうです。
視覚型・・・形・色・イメージ・絵・場面・パターン・位置関係
著書:アドレリアン P11
なるほど、長男(5歳)はもしかすると、絵を描くことを勇気づけてあげるといいかもしれない。そんな風に思ったのです。
ただ、そのあとの妻の言葉に僕はすこし、戸惑いを感じました。
『保育園でぬりえをしていたら下手って言われたんでしょ?』
えっ、そうだったの???僕は、この話を初めて聞きました。
そして、それから、妻が息子に熱く語りかけていました。
妻が伝えたかったメッセージは一言でいうと、こういうことです。
『絵に上手い下手はない!あなたが描きたいように描くのがいい!』
実際は、さまざまなたとえ話を入れて、長男(5歳)にわかるように話をしていました。僕も一緒に聞いていたのですが、妻の息子への思いがあふれていてとてもいい話だったと思います!
さぞかし、息子も勇気づけられたことでしょう♪
ふと、息子の方に目をやると、はにかむように笑っていました。
☆何が上手で何が下手なのか?問うてみる☆
それで、僕も、妻の意見には賛成です。まず、絵に上手い下手はないと思います。そこには主観的な判断があるだけで、その絵が上手いか?下手か?の判断って本当にあいまいだと思うのです。
だったら、上手いか下手か?にこだわるのではなく、描きたいか?描きたくないか?を自分自身に問いかける方がいいのではないかと思うのです。
今回の家族会議の中での話だと、
『保育園の友達に絵を下手だと言われたから描くのをやめた。』
ということですね。
先ほども言いましたが、上手いか?下手か?の境界線ってあいまいです。ということは、そこに左右されるのではなく、重要なのは『描きたいか?描きたくないか?』だと思うのです。
描きたければ、僕としては息子が絵を描けるように協力していくし、
描きたくなければ、無理には描かなくてもいいということです。
それで、このことを息子に伝えるための作戦を考えました。
僕は、息子を呼んで、ノートパソコンのディスプレイを前にしてこう言いました。
『この絵、上手だと思う?下手だと思う?』
僕は、パソコンの画面上にピカソの絵を出して息子に見せました。息子はこれまで、ピカソの絵を見たこともないですし、ピカソという名前は聞いたことがないと思います。
息子はこういいました。
『・・・・・上手いと思う!』
オゥーマイガッド!!!そこは下手だと言ってほしかった!(笑)
続けました。
父『そうか、この絵が上手いって思えるのは素晴らしいなぁ!お父ちゃんは、あんまり上手いとは思わないんや~』
息子『・・・・(絵を見ている)』
父『これを描いた人はピカソっていう人なんや。この人は、すごく有名な画家なん。この人の絵はすごく素晴らしいっていわれてるんよ!』
息子『ピカソ!?!?・・・ピカソより~♪普通に~♪ラッセンが好きぃぃぃ!!!の人?』
父『その人じゃない。。。(笑)』(ピカソをそれで知ってたの?)
息子『でも、俺にはこんなに上手に描けん!』
父『もちろん、こんな風には描けんと思う。やけど、上手に描けんから描いたらダメってことじゃないと思うんや、お父ちゃんね・・・。』
☆絵はうまい人だけが書いていいものではない☆
父『ちょうど、ラッセンの話が出たから、ラッセンの絵を見てみよう。』
ラッセンの絵を検索
父『ほら、どう?これは上手だと思う?』
息子『上手や!』
父『じゃあ、ピカソの絵と比べてどっちが上手?』
息子『ラッセン』
父『そうよなぁ。やけど、ピカソの絵って上手とか、素晴らしいって言われてるんよ!』
息子『ふーん』
父『それで、お父ちゃんが言いたいことはなぁ、絵が上手が下手かって見る人によって違うってことなんや。』
息子『・・・・』
父『保育園の友達に、絵が下手やって言われたんやろ?やけど、それは、友達が見て下手と思っただけやから、まったく気にせんでええと思う。それで友達には"そうなんよ、下手なんよ、やけど、絵を描くのが好きやから描きよるんや。"っていうたらそれで終わりやと思うよ~』
息子『うん。』
父『(息子)が描きたかったら描いたらええと思うよ。』
息子『うん。』
ここで僕と息子の話は終わりました。
この会話が息子にとって勇気づけになっているかは今の段階ではわかりません。今後の息子の行動を見ていこうと思います。だけど、僕自身は息子のことを勇気づけられたのではないかと思っているんです。
ただ、今回、ピカソの描いた絵が素晴らしいということは、息子に伝わったと思います。
天才の仕事って、その才能を生かして、作品を世に送り出していくことも大きな仕事だと思います。
それともう一つ、その作品を見た人に、いつか自分もこういう絵が描きたい!と思わせるということ。
言いかえると、見る人に夢を与えるということも仕事の一つだと思うんです。
僕は、自慢じゃないですが、絵心が全くありません。
だから、ピカソの絵を見ても、昔から『こんなん、誰でも描けそうやんッ!』って思ってしまっていました。
もちろん、描けないんですがね!(笑)
それで、描けるか?掛けないかは別にして、
息子はピカソの絵から伝わるメッセージは受け取ったと思います。
絵が上手なだけでは天才にはなれない。。。
ーおしまいー