アサドリのブログ101『死んだ後の物語』
おはようございます。
昨日はブログを書きながら寝てしまっておりました。だいたい500字ぐらい書いたところで力尽きたようです。気づいたら深夜になっていました。
一応、毎日ブログをたいなぁ~とゆるーく思っているので、昨日書いた記事の続きは、今日書きたいと思います。
今回は別の話題。
朝から、なにを暗いことを考えているのか?と言われそうですが、皆さんは、『自分が死んだ後の物語』を家族と共有しているでしょうか?
例えば、自分の子どもから「死んだらどうなるの?」って言われたら、どう説明しますか?
これは、それぞれ家庭で違いますよね。宗教によってもちろん違うし、そもそも、こういう話題を出すことがタブーな雰囲気の家庭もあるでしょう。
ただ、自分が死んだあとどうなるのか?ということを家族で共有することって、とても有意義なことだと思うんです。
例えば、極端に考えると『あの世がある』と考えるか、『あの世なんてない』と考えるか。
もちろん、言うまでもないですが、これはどっちがいいとか、あの世があるとか、ないとか、そういうことは考えないことにします。ただ、極端な例として、『死んだらあの世に行く』という物語のなか死んでいくのか?『死んだらただ無になる』という物語のなか死んでいくのか?
どういう風に死んだ後の物語を選択するのがいいのかなぁ~と、ふと考えたりします。
これって日本人特有なんですかね?というか、日本人の中でも、僕が特有なのかもしれません。
例えば、キリスト教が大半を占める国に生まれると、死んだあとは神様のもとに行くというのが当たり前かもしれませんし、無宗教だとすると、そもそも、あの世なんてないというのが普通かもしれません。
ただ、人様のことは人様にお任せして、自分としてはどのように死んでいくのか?ということを考えて、家族と共有しておくことは大切なことだと感じたんです。
これも、最近になって思ったことなのですが、そうですね、30代になったぐらいから『どう生きるのか?』よりも『どう死ぬのか?』ということを考えるウエイトが高まってきている気がします。
もちろん、これは『死にたい』と思っていることではありません。また、『死』というものを軽々しく考えているつもりもないんです。
ただ、いつ、どんなタイミングで訪れるかわからない。いや、誰にでもいつかは訪れる『死』に対してどういう態度で臨むのか?そして死んだあと、自分はどうなると思っているのか?
こういうことを考えるのって大切だと思うんです。よりよく生きるためにも、自分が死んだ後も、家族が幸せに生きていくためにも。。。
だからこそ、それを家族と共有しておくことも大切だと思います。
ここでやめようかと思ったのですが、もう少し考えると、こういうことを考えるきっかけを作ってくれたのも、自分に家族がいるということが大きいと思います。
自分に子どもができたことで、死に対してどういう意思決定をするのか?こういうことは考えておいた方がいいと思うようになったと感じています。
もし、僕が、結婚しておらず、独り身だったとすると、どういう風に生きて、どういう風に死ぬかは、それほど考えなかったかもしれません。
家族がいてくれたおかげで、よりよく生きて、よりよく死んでいく。そのために自分に何ができるのか?ということを、まず自分が実践し、それを伝えていく。そういう“責任感”を家族が与えてくれたのだと思うんです。
責任感って大切だと感じます。責任を果たすことは、自分には“役割”があるということです。自分に役割があり、それを果たすことで、みんなに貢献していく。
そういうことが大切だということを『家族』が教えてくれたんです。
ということで、改めて聞いてみたいのですが
自分の子どもから「死んだらどうなるの?」って言われたら、どう説明しますか?
今日も幸せな一日を選択できますように。