マイ・ファミリー総合カタログ

家族や子育てについてのカタログ

アサドリのブログ45

f:id:solidka2yuki:20170313075340j:plain


おはようございます。
今日からまた一週間が始まりますね。
今週はどんな一週間になるでしょうか?
楽しみです。
今日は気温もそれほど低くない感じですね。
少しあったかいように思います。
これから4月に向けて暖かくなって行くのでしょう。

さて、昨日は、息子と一緒に散歩をしたのです。
誕生日に買ってもらったばかりの自転車に乗り
家の近くにある図書館まで行きました。
昨日はすごく天気も良かったため
散歩がてら図書館まで歩くのは気持ちが良かったですね。

図書館には、少し広い芝生のスペースがあります。
そこには、大きめの石がいくつかおかれていて
座れるようになっています。
最初は本を借りずに、そこに二人で座り
道中で買ったフルーツジュースを飲みました。

お日様のひかりがポカポカと
僕たち二人を温めるなか
のんびりと、ジュースを飲みました。
しばらくすると、どこからか
ピピピピピぃ~と小鳥の鳴き声が聞こえました。
僕は息子に言いました

「聞こえる?鳥の鳴き声」
「うん」
「何の鳴き声かな?」
「すずめかな~」

 そんな会話をしました。

すると、小鳥が僕たちの5メートルほど向こうで
ピョン、ピョン、と地面を飛んでいる姿が見えました。
さっきの鳴き声の主かもしれませんね。
僕は息子に言いました。

「あれ見える?」

 そしたら、小鳥に気づいたのか

座っていた石をポンっとおりて
静かにその小鳥に近づいて行きました。

小鳥はそれに気づいているのかいないのか
あいかわらずピョン、ピョンと地面をはねています。
息子はその後ろを忍び足でついていっています。
とても嬉しそうな顔をしてそぉーっと近づきます。
でも、それに気づいたのか。
鳥は飛んでいってしまいました。

そのようすをながめていて
「なんかほのぼのしていいなぁ~」
と思いました。

時間にして、10分ぐらいのできごとかもしれません。
でも、すごくゆ~~たりした時間でした。

なんの目的もなく、のんびりした時間を過ごす
何かをしようとせず、ただただ、時間がすぎていくのを
二人で共有していく。

例えば、なにか目的を作ってしまえば
時間というものはその目的に向かって進むようになります。
その目的を達成するために使う時間でなければもったいないと。

でも、目的がないとどうでしょうか?

時間というものがありのままにみえてきます。
よけいな目的がありませんからね。
時間そのものを楽しむことができます。

時間がありのままに見えれば
その時間を共有する人たちもありのままということです。

ありのままに見る
なにか特別なことを期待することなく
過去のことにしばられることもなく

ただただ、のんびり、時間がすぎていくのを

ながめてすごす。

息子と二人ですごした

そんな、ゆったりな日曜日でした。

 

今日も幸せな一日を選択できますように。

子どもを尊敬する決心 Part2

f:id:solidka2yuki:20170312143411j:plain

今日の夕方、一つ記事を更新した。

 

family-base-camp.hatenablog.jp

 


この内容は、5歳になる長男が保育園に馴染めていないという内容だ。簡単に、やわらかく説明すると、息子が通う保育園は活発なこどもが多い。その中で、息子は物静かにクラスに溶け込もうとするため、びっくりしているのではないか?ということを感じた。これについて、父親として何ができるか?今のじぶんにできることを考えて書いてみたのだ。

この内容についてもう少し考えてみたい。

☆こどもが活発とか静かとかはどっちでもいい☆

 まず、僕の考えとして、息子が活発だろうが、物静かだろうがどちらでもいいと思っている。活発な息子でも、物静かな息子でも、どっちの息子でも愛する決心ができている。それはすなわち、親としての理想のこども像を持たない。つまり、子どもがどんな状態でも、そのままの子どもを尊敬しているというこだ。
ここはすごくたいせつなポイントだと思う。

 例えば、親が「活発な子どもでなければならない」とか「クラスには自分から積極的に溶け込まなければならない」など。子どものことに対して「~しなければならない!」という態度で接すると、そもそも子どもといい関係が作れない可能性が高いと思う。よく言われる言葉で「あなたのために言っている」という言葉の後ろには、いつもこれらがあるのではないだろうか?

 だから僕自身、それは避けたい。逆に考えて、親が考える「しなければならない」という方向に子どもを誘導しても、子どもは高い確率でいつか反発するし、いい親子関係は作れないように思う。そしてそれこそが、親の思うように子どもを操る行為だと思う。親は放っておけばいつだって子どもを支配したいからね。それは自分自身に対して、常に厳しく戒めている。

 だから、僕自身は子どもを誘導したり、思い通りにしたりという考えとは真逆の方向に舵を取っている。そもそも、そういう子育ては、僕自身の性分に合わないし、はっきり言って大っ嫌いだ。

ここは強調しておきたい。

アドラー心理学に関する論文を読んで☆

 一つ論文をご紹介。といっても、僕みたいなものがアドラー心理学の論文を解説することは恐れ多いので、今の僕にとって、参考にさせて頂いた部分を紹介したいと思う。

・親や教師が、援助できること、できないことを区別する。
・子どものそぶりからその子の要求を察して対応しない。
・できていないことをさがして、「もっと~~になりなさい」と子どもに期待をかけるのをやめる。これは、「今のあなたのままではだめだ」というメッセージと同じこと。自分の力でやれそうにないと思っている子どもをより自信を無くさせる。

・人にはそれぞれ特質があります。例えば、いつも旅行の企画をして友達を呼び集めるのが得意な人もいれば、誘ってもらうと喜んで参加する人もいますし、さらには留守番しているのが好きな人がいるでしょう。自分の特質を生かして、協力的に生活したり、仕事をすることが大切ではないでしょうか。
・積極的な子どもは積極的な子どもとして、消極的な子どもは消極的な子どもとして、それぞれに建設的な居場所があればいいのです。

 

「積極型の子ども・消極型の子どもー子どもの自立をめぐってー 萩 昌子 」より

 

これは、もちろん、アドラー心理学の理論に基づいて書かれている。もしかすると、アドラー心理学を知らない人には難しいかもしれないが、是非とも参考にしてもらいたい。そして、子どもには今のままでいい。そのままのあなたで他の人の役に立つ道を一緒に探していこう!というメッセージを送りたい。(受け取るか受け取らないかはあなた次第。受け取ってくれると嬉しいな。)

アドラー心理学の尊敬の意味☆

 僕は野田俊作先生のアドラー心理学を学んでいる。ここで、これを読んでいるあなたは不思議に思うかもしれない。それは「野田先生の」とついているところだ。ただ単にアドラー心理学を学んでいる。とせずに、あえて、野田先生のとつけるにはわけがある。それは、アドラー心理学は教える人、または、本であれば、誰が書いたか?でアドラー心理学のニュアンスが大きく違う場合があるからだ。っというかむしろ多い。まぁ、多くは語らないが、アドラー心理学会がフジテレビに対して送った抗議文を読んで判断して頂ければいいんじゃないかと思っている。

アドラー心理学会がHP上で公表している抗議文

 それで、僕は野田先生のアドラー心理学を学んでいる。これは、一生涯を通して学び続ける、ライフワークとして学びたいと思っているし、それに値することだと思う。

 僕自身、アドラー心理学に対するいろんな講演会に参加したが、やはり、野田先生のアドラー心理学が一番いいと、僕は思っている。それは、実際に、今の僕自身がとても幸せだからだ。自分のことも好きだし、今の自分の人生に対しても満足できている。(歩みを止めるというわけではない。)

 自分がそうなら、できるだけほかの人にも幸せになってほしい。そして、そうなる方法を、協力的に学んでいきたい。そういう風に自分を家族や社会に対して役立てて行きたい。

そう思っている。

最後に、野田先生の著書「勇気づけの方法」よりアドラー心理学の“尊敬”についての意味を書いて今日は終わりにしたいと思う。

アドラー心理学に基づく教育、あるいは育児では、何度も言うように大人と子どもとはまったく対等だという、絶対的な前提を置きます。教師と生徒はまったく対等である、親と子どもはまったく対等である、たとえその子どもが0歳児であっても、あるいは大きな子どもであっても、障害児であっても、あるいは非行化している子であっても、そういうこととはまったく関わりなく、人間として対等なのです。
 対等ということをふまえて、その人がどんなことをしていようと、どんな考え方をしていようと、どんな状態にあろうと、人間として尊敬する。そこからしか教育も育児も始まらないと、アドラー心理学は考えます。

「勇気づけの方法 P152 より」

 

 

勇気づけの方法 (アドラー心理学を語る4)

勇気づけの方法 (アドラー心理学を語る4)

 

 

 よろしければ、シェアをしていただけると嬉しいです♪

ちいちぇえ頃にはワシにも見えたが、そうかアンタらにも見えたんけぇ~。 Byトトロのおばあちゃん

レイチェル・カーソンをご存じだろうか?僕は「沈黙の春」という本が中学時代の教科書で紹介されたことで知っていた。「沈黙と春」というのは、農薬が環境に悪影響を及ぼすことを書いた本、だったように思う。学校の教科書の内容で覚えているぐらいだ。当時の僕としてもインパクトがあったのだと思う。しかしそれっきりだった。あれから、約20年が経った。僕は、偶然、レイチェル・カーソンが書いた本と出合うのであった。

f:id:solidka2yuki:20170312215315j:plain

この本はレイチェルが甥っ子のロジャーとの生活を自然への探求と合わせて書かれて本だ。その一部をご紹介。

 

もし、あなた自身は自然への知識をほんのすこししかもっていないと感じていたとしても、親として、たくさんのことを子どもにしてやることができます。
 たとえば、こどもといっしょに空をみあげてみましょう。そこには夜明けや黄昏の美しさがあり、流れ雲、夜空にまたたあく星があります。

 

センス・オブ・ワンダー P26

 

 この本は全体がまるでひとつの詩のように語られている。きれいというより美しい本だ。さきほど紹介した文章は、僕がこの本のなかで好きなページのひとつだ。子どもが大人になる前に持っている感性。それを、美しい文章とともに思い出させてくれる。とてもすてきな本だ。

 

 僕も現在5歳と3歳のこどもたちに囲まれて楽しい生活をしている。もしも、あなたが僕と同じような状況なら、きっと何かを感じるものがあるはずだ。子育て中のかたは是非読んでもらいたい。できるだけ早く。

 

 それともう一つ、この本を読むうえで知っておいてもらいたいことがある。それは、レイチェル・カーソン自身が“どんな状況でこの本を書いたか?”だ。実は、この本を書いている時点で、自身の人生がそう長くないことが分かっていた。その中で、この文章を書いたのだ。実際、この本は未完のまま終わっている。それは、レイチェルの死後、友人たちによって出版されたからだ。

 この本は、ロジャーやこどもたちに対するレイチェルの愛であふれている。これはどういうことか?つまり、レイチェルは自分が死ぬことが分かっていたにもかかわらず、それでも、自分以外の人間のことを思い、愛していたのだ!これって、僕は素晴らしい人生だと思う。自分ももちろん大切だ。まずはそれでいいと思う。でも、自分よりももっと大切な人がいる。こういう人生って幸せな生き方だと思う。レイチェルとロジャー。この二人は、お互いがお互いを信頼し、尊敬しあっている関係だと思う。自分の人生の中に信頼・尊敬できる相手がいてくれること。これってすごく幸せなことだ。最後にもう一つ紹介して終わりにしたい。

 

このようにして、毎年、毎年、幼い心に焼きつけられてゆくすばらしい光景の記憶は、彼が失った睡眠時間をおぎなってあまりあるはるかにたいせつな影響を、彼の人間性にあたえているはずだとわたしたちは感じていました。
 それが正しかったことを、去年の夏、ここでむかえた満月の夜に、ロジャーは自分の言葉で伝えてくれました。わたしのひざの上にだっこされて、じっと静かに月や海面、そして夜空をながめながら、ロジャーはそっとささやいたのです。
「ここにきてよかった」

センス・オブ・ワンダー P15-P16

 

 

センス・オブ・ワンダー

センス・オブ・ワンダー

 

 よろしければこの記事をシェアしていただければ嬉しいです!

 

子どもを尊敬する決心

 

f:id:solidka2yuki:20170312143411j:plain

5歳の長男が、どうやら保育園に馴染めていないようだ。これは、妻との話し合いの中で、僕も妻もお互いが感じていることだ。そして、僕自身が息子の最近の様子を見ていても、そう思う。

少し前にこんな記事を書いた。

 

family-base-camp.hatenablog.jp

 

 

family-base-camp.hatenablog.jp

 

 

子どもが保育園に馴染めておらず、もしかするといじめられているかもしれない。という報告を妻から受け、それについて僕がどう反応したか?を書いた。

その後の様子を書くとともに、僕が感じたことを書いてみたい。

 

☆その後の様子☆

 その後も、子どもの様子を観察する中で、『保育園に馴染めていない』ということは確かなようだ。どういう風に馴染めていないか?詳しく書くことは控えたい。だが、同じような状況の方に対して、少しでも役に立てるかもしれないという思いと、僕自身も同じような境遇の方からネットを通じて勇気を頂けるかもしれない。こういう思いがあり、ざっくりと状況を伝える。

 まず、僕の息子は積極的か?消極的か?というと消極的だと思う。これはどちらが良くて、どちらが悪いか?という話では決してない。どちらもいいのだ。
 次に、実際に息子が通っている保育園のクラスの様子はというと、積極的な子どもが大半のようだ。これは妻が日々のお迎えに行った時に見るクラスの雰囲気がそうらしい。僕も保育参観などの行事に参加した時にそのように感じる。それで結果的に、息子はクラスの雰囲気に馴染めず、たいてい一人で遊んでいるようだ。

 僕は息子に「今日は保育園で何して遊んだの?」とよく聞くのだが、息子から、友達と何かをして遊んだ。という話はあまり聴かない。しかし、これ自体はいいことだと思う。アドラー心理学の意味合いで「息子は一人で遊ぶことを選んでいる」と思うからだ。それが保育園という共同体の中に所属するために選んだ方法であり、ちゃんと自分で自分の生き方(保育園での生活の仕方)を選んでいる!

そう感じている。

 つまり、消極的にクラスに所属するということ。これを息子は自分で選んでいるわけだ。人数がそこまで多いクラスではないのだが、しかし、いかんせん、クラスの大半が積極的な雰囲気のクラスなので、消極的に所属するということがマイノリティーになっているということだ。

 最もこれは事実ではない。これは、僕の頭の中で考えている勝手な意見だ。それを認めたうえで、こんな風に考える。消極的にクラスに所属しようとすることは何の問題もない。ただ、消極的にクラスに所属することがマイノリティーだという現状があるゆえに、息子自身が、せっかく自分で選んだ

その生き方をマイナスに感じてしまうことは問題だと思う。ということだ。

問題というと少しニュアンスがちがう。もう少し正確にいうと、問題じゃなくて不便じゃないか?と思う。

☆ここまでを整理して分かりやすくしてみたい☆

例えば、クラスに10人の子どもたちがいるとする。その10人のうち9人が活発な子どもで、残りの1人が物静かな子どもだったとする。9人の子どもたちは外で元気に野球をしたりサッカーをしたりしている。そんな中1人だけ部屋の中で絵本を読んだり、パズルをしたりして遊んでいる。

 これ自体はすごくいいことだ。子どもが保育園でどうやって遊ぶか?は子どもの自由だと思う。(もちろん、集団としてしなければいけないことはするべきだ)
ただ、野球やサッカーをして遊ぶのがいいことで、絵本やパズルで遊ぶことは悪いことだ。こういう雰囲気があったり、子ども自身がそのように感じてしまうことは不便だろうなと感じる。

こんな感じだ。

さて、このことについてどうするか?父親として、仲間として、何ができるのか?または何もできないのか?(子ども自身に任せて見守る)

最近はこれについて考えている。

☆僕に何ができるか?☆

今の段階で僕にできることをいくつか挙げてみる。

アドラー心理学での対応を「パセージ」に照らし合わせて考えてみる
・子どもの話をよく聴く
・保育園に行きづらいということについて無理に話題にしない。(例えば友達関係)
・それよりも、もっと他のできている面に注目する。
・本来、保育園に行くか行かないかは子どもの自由ということを自分の中で再確認する
・保育園以外で集団での生活を体験できる場所を一緒に探す(今はクライミングジムに親子で通っている)
・情報を集める。
・常に子どものしたいことで僕にできることを一緒に考えていく。
自助グループ(アドラー心理学の勉強会)に参加して仲間に相談する

アドラー心理学についての論文を読んでみた☆

上記で書いた今の段階で僕にできることのうちの一つ「情報を集める」というところで、いじめや不登校に関するアドラー心理学の論文を読んでみた。これはアドラー心理学会のHPから無料で引っ張ってこれるものだ。みなさんも、興味があったらDLしみてみほしい。

f:id:solidka2yuki:20170312144136j:plain

 

f:id:solidka2yuki:20170312144157j:plain

 

f:id:solidka2yuki:20170312144219j:plain

 

f:id:solidka2yuki:20170312144241j:plain

 

f:id:solidka2yuki:20170312144302j:plain

まだ途中であるが、読んでみてまた感想をシェアしてみたい。

☆僕から息子へ、今、伝えたいこと☆

お父ちゃんはね、この先何があってもあなたの味方です。
あなたのことが大好きです。
学校や保育園に行っても、行かなくてもね。
もしかしたら、お父ちゃんの知らないところで
つらい思いをしているのかもしれないね。
だけど、その思いはお父ちゃんに話してほしい。
話してくれれば
何か協力できることがあるかもしれないよ
キミは他の人の気持ちがすごくわかる繊細な心の優しい子だから
そういう話をすると
お父ちゃんが心配するかもって思うかもしれないね。
だけど、お父ちゃんは何も心配していないよ。
これから先、良いこともたくさんあって
もちろん、悪いこともたくさんあると思う。
だけど、これだけは信じていてほしい
良いことがあったキミも
悪いことがあったキミも
どちらのキミも
お父ちゃんは大好きです。
今までも、これから先もずっと
生まれたときから
いつか離れていくそのときまでずっとね。

 

この気持ちをいろんな方法で息子に伝えていきたいと思います。

 

それが子育てなんですよね♪

 

↓よろしければシェアしていただければ嬉しいです。↓

アサドリのブログ44

f:id:solidka2yuki:20170312080951j:plain

おはようございます!
よく寝た!(笑)
寝る子は育つといいますが
僕はまだ育ちたいようです。(笑)

この前会社で、こんな話を聞きました。
「年を取ったら夢を見なくなる。」
それを話していたのは、60代の方と50代の方です。
夢といっても
「俺には夢がある~♪両手じゃ抱えきれない~♪」
というブルーハーツの方の夢ではなくて
寝るときに見る夢のほうです。
それで、会社で話をされていた先輩お二人はえらく共感していて
「そうそう!!全然見ない!若いころはよく見ていたけどね~」
という感じで盛り上がっておられました。

ところで、年を取ると夢を見なくなるんですか?

 

童顔の僕にはわかりません!笑

 

family-base-camp.hatenablog.jp

family-base-camp.hatenablog.jp

 

というのも、今日、夢を見たんですね♪

どんな夢かというと

空を飛ぶ夢子どもかッ!)

です。(笑)

ちなみに、僕は、2~3か月に1回ぐらいの間隔で夢を見るのですが

「空を飛ぶ夢」関連がほとんどなんですね。

空を飛ぶ。。。

空を飛ぶといってもいろんな方法がありますよね?

みなさんならどうやって空を飛びますか?

そして、僕が夢の中でどうやって空を飛んでいると思いますか?

僕はこうやって空を飛んでいます。

----いきなり!空の飛び方講座----

1、その場に立ってください。

2、両手を左右に広げてください。
  (このとき、手のひらは下に向けること!)

3、その手を上下に動かしてください。

4、もっともっと動かしてください。

5、もっっっっっっと上下に動かしてください!

6、ほら、飛べたでしょ!!!

*注意:全然飛べへんやんけ!っという方は・・・・

動かし方が甘いんじゃぁ!!!!

もっと動かさんかいッ!!!!!笑*


----いきなり!空の飛び方講座 完----

 

すごく原始的な飛び方でしょ?笑

それで、どんな状況で飛ぶのか?というと

例えば、今朝ほど見た夢で覚えているのは

場所は僕の実家でした。その周辺で鬼ごっこをしていたんです。
誰と鬼ごっこをしていたのかは覚えていません。
ですが2人に追いかけられたのは覚えています。
一人は男、もう一人は女です。
それで、僕を捕まえようとしたときに
僕は、家の周りを囲っている塀に上りました。
そこから『いきなり!空の飛び方講座』の方法で飛んだのです。

しかし、この方法で「ビューーン」と飛べるかというとそうではありません。

やはりそこは、少し重い感じというか少しずつ
例えるなら気球のように上がっていく感じです。

そうなると、鬼の二人が僕のところに迫ってきます。

僕は必至で腕を上下に動かしています!

何、この、ハラハラドキドキの展開!笑

それで、僕はこの時すでに、2メートルぐらいの高さまで飛んでいます。
ですが、鬼の二人がジャンプしたら届くぐらいの高さです。

「やばい!つかまる!」

と思ったところで、飛ぶのが安定するというか、軌道に乗るというか

軽やかに上空に舞い上がることができました!

僕は、何とか鬼の二人から逃れることができました!

それで、そのまま飛んでいくのですが
高さ的には家の屋根よりも少し高いぐらいです。

このころには、体が重たい感じはなく軽やかに飛ぶことができて
しかも自由に飛ぶことができています!すごく気持ちいい感覚です。

そして飛びながら下を見ると
二人の鬼が小さく見えました。

そしてなぜか、男の方が着ていたセーターを僕に投げてくるのでした。

しかし、もう僕には届きません。

なぜなら僕は、飛んでいるから!笑

男が投げたセーターは2メートルぐらいの高さに上がり

地面へと落ちた、、、ところで目が覚めました。

 

現実の世界に戻ったのです。

いやぁ、いい夢だった!

なんというスペクタクル!!!

笑いあり、涙ありのSFファンタジードリーム!!!

この夢は今度、ハリウッドで映画化になるかもしれませんね!

もちろん全米が泣いた!」というコピー付きで!笑

 

今日も幸せな一日を選択できますように。


ブルーハーツ 夢

アサドリのブログ43

f:id:solidka2yuki:20170311073544j:plain

おはようございます。
今日はお休みでございます。
ここ最近、朝が寒いですね。
少し前までは「このまま春になるんじゃないか?」というぐらい
暖かかったです。
しかし、そうはさせないぞ!と
冬将軍の声が聞こえてきそうですね。
もう少し冬は続きそうです。

ところで、ロールシャッハテストって知ってますか?
そうそう、心理学のテストで使われるアレです。
一枚の絵、というか模様を眺めてそれが何に見えるか?
有名なもので
ある人は向こうを向いた若い女性に見えて
またある人はこちらを向いた老婆に見えるというものがありますね。
あれで何が分かるのか?は僕にはわかりませんが
その時の心理状態が分かるのでしょう。

それで面白いのは
同じ模様でも見る人によって全然違うものに見える
ということです。

しかし、そもそも最初に
「何にみえますか?」
と言われないと
何にも見えないですよね?
つまりは、何かに見ようとしないと
ただの黒い模様にしか見えないわけです。
それを、言ってしまえば無理やりに何かに見させようとするわけです。

黒い模様を「えっ、なんだろう?」と凝視した結果
何かに見える。それが、若い女性だったり老婆だったりするわけですよね。

それで、若い女性に見える人は、老婆には見えないし
老婆に見える人は、若い女性には見えない。

それを後で指摘され
「あっ、なるほど!」
と今までは視界に入ってこなかった老婆が見えることもあるし
老婆が若い女性に見えることもあります。

逆に、指摘された後も
一向に自分が見たものしか見えない場合もあります。

つまり、若い女性に見えた人が
「実はこれ、老婆にも見えるんですよ。」
と何回言われても、老婆には見えないパターン。

逆に老婆に見えていた人が
誰に何をどういわれても老婆にしか見えないことも。

これって、面白いことだと思います。

あっ、でもロールシャッハテストが
どういう意味合いでテストされるのかは知らないんですけどね(笑)

もし、男性が若い女性にしか見えない!といったら

発情のサインということなのでしょうか?(笑)

まぁ、ロールシャッハテストの本来の意味合いはおいておいて

人生もまたロールシャッハテストだなぁ~って思うんです。

人それぞれ人生観というものがありますよね?

僕は、人生そのものには何の意味もないと思っています。

ロールシャッハテストの模様と同じ。

そこに、自分自身で意味づけをしていくことで

人生が、楽しいものにも見えるし、悲しいものにも見える。

幸せな人生に見えることもあるし、とんでもなく不幸に見えることもある。

喜劇の王様チャップリンに見える人もいるし、悲劇の女王オスカルに見える人もいる。

もちろん、楽しくなければダメだ!といっているわけではなく
不幸に見えるなら、今すぐ幸せにみるべきだ!というわけでもありません。

自分の人生ですから
自分の見たいように見ればいいんだと思います。

好き嫌いの問題ですから。

人生を幸せな風に見るのが好きな人。
はたまた、人生を不幸なように見るのが好きな人。

それぞれです。

ただ、、、

人生は見方を変えれば違って見える

ということを知っておけばいいんだと思っています。

そう思いませんか?

ということを考えた朝でした。

まだまだ朝は寒いですね。
キーボードを打つ指が冷たいです。

ですが、これぐらい冷える方が生ぬるい温度よりは
気持ちが引き締まっていいようにも思います。

最後に、このブログを書く途中ぐらいから
頭の中でBGMとして流れている

サイモンアンドガーファンクルの
「冬の散歩道」をお届けして終わりにします。

ところで、みなさんはこの曲が

「どんなふうに見えますか?」

冬の冷たい憂鬱を抜けきれない暗い歌か?

冬の冷たさの中で、それでも春に向かって歩く希望の歌か?

 

今日も幸せな一日を選択できますように。

 


Simon & Garfunkel - A Hazy Shade Of Winter

人生をこじらせる前に知っておきべきこと。

 

スペクテイター〈37号〉 北山耕平

スペクテイター〈37号〉 北山耕平

 

 

いつからだろう?こんなに人生が複雑になったのは。昔はもっとシンプルだったと聞く。想像よりももっと昔だ。その時代は、今よりも便利ではない。ただ、シンプルだった。

今、読んでいる本にこんな言葉がある。

 

“ずっとずっと昔は、もちろん今でも伝統的、原初的な文明を守っているところでは、人生というものはとても単純にできあがっていた。

(Spetator Vol37 北山耕平 P174)”

 

便利になればなるほど複雑になる。これは、必然のようだ。だとすると、これからますます便利な世の中になりつつある。それに比例して人間の暮らしは複雑になるのだろう。だから、人生が複雑になったのは、生活が便利になったころからだと思って間違いない。
 

 なぜ、人生が複雑になるのか?それはどんどん便利になり「生きているうちにやることが増える」からだ。

“誕生し、子供になり、大人になって、結婚し、年齢をとり、死んでいく。

(Spetator Vol37 北山耕平 P174)”


ここに書いている通り、人生は本来シンプルだ。しかし、ここに僕たちはどれほどのスパイスを加えるのだろうか?「子どものころからお受験」「いい高校、大学に進む」「いい会社に入るために就活」「理想の相手を見つける」「老後の心配をする」「財産分与をする」「いい棺桶に入るための終活」などなど。

もともとはシンプルだった材料に、過剰なほどスパイスを加えていく。それによって、そもそも、何の料理を作っていたのか分からなくなり、食材本来の味はかき消される。

 しかし落ち着いて考えてみよう。どれだけ便利になっても、人生はシンプルだ。一度生まれたら、死んでいく。それだけだ。

ただ、これからさらに時代が進み「人類が永遠に死ななくなった」としたら、、、

そしたら人生は

生きる価値もないほど複雑になるんだろうな。